油彩画家・伊藤ノリヒコ講演
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油彩画家・伊藤ノリヒコ 講演

 

画家として世界80カ国を旅をしたエピソードを講演。
特に中学生、高校生、大学生に伝えたいメッセージを講演中。


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                                        伊藤ノリヒコ
                                        〒297-0002千葉県長生郡一宮町7122-7
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京都文教大学学生が、野外セミナーで、伊藤ノリヒコ・アトリエに来訪。

講演 「世界の旅から」

期日 2003年10月26日
場所 伊藤ノリヒコ・アトリエにて
学生 12人
教師 2名

松田凡:
世界を旅している画家・伊藤則彦先生に旅のお話を聞かせていただきたいと思っております。我々はエチオピアに小学校を作ろうという目標 で授業を開始したのですが、実際には何をしたらよいか分からない。一人ひとりの思いも違うということで、今回の旅行でいろいろな形でエチオピアと係わっている方々のお話を聴いて、その中から補足して行けばよいと考えています。
タスフャエヤさん、山田さんのお話を聞いて昨日ミーテングをやったのですが、大分成果が出てきたのかなと思いますが、ここでもう一押し伊藤先生のお話を聴いて話が前に進むことを願っております。
読売り新聞の記者の方も、お話を聴きに見えられておられます。

伊藤ノリヒコ:  
僕が伊藤ノリヒコで画家でございます。自由業で人口が一番多いのが詩人で、その次に多いのが画家だそうです。それくらい画家という人口は多いそうです。同じ町内に一人か二人くらいいるようです。ただ、画家という職業だけで食べてゆくというのは、奥が深く、大変な職業です。やればやるほど奥が深いのです。停年もありませんし、死ぬまでこの道を志した以上はやり遂げなければならないと考えております。
僕が最初にどうしてこの美の世界に出合ったかと、それからまた、これを続ける内にいろんな時代を経てた後にアフリカという地に入り、アフリカにどっぷり浸かってしまったところまでをお話できればと思っております。
僕は、1938年生まれでございまして、あなた方のお父さんあたりにあたる年齢ではないかと思うのですが、広島県から山陰の出雲に抜ける丁度真中あたりに三次市という盆地があり、とても古い街でございます。西の京都と言われるくらいこじんまりとした街でございます。そこで私は生まれたわけであります。そして昭和20年、小学校にあがるわけですが、第2次世界対戦が既に始まっていまして、4月にあがって、8月には終戦を迎えるわけです。ですから、学校にあがって直ぐに終戦ですから第2次世界大戦がどういうものであったかという記憶があまりないですね。
20年には、広島に原爆が落ちまして、我々はそれをピカドンと呼んでいました。ピッカと光った瞬間にパットやられるとうことです。
朝、原爆が落ちて被爆した方々が、昼には火傷を負いながら着のみ着のままで脱出してきた方が列車で沢山逃げてくるのを間のあたりにしました。
僕は子供でしたが、近所のお兄さんが、朝広島に通勤に出かけて、着いたと同時に原爆にやられ、すぐ帰って来たのを見ました。全身真っ真っ赤な火傷をおい、背中が裂けたようにただれていて凄い衝撃を受けましたね。原爆と言うと、今もそのイメージが浮かんできて忘れられないですね。そういうことがございました。
僕の父も広島市に親戚がありましたので、直ぐに出かけたのですが、なかなか探しきれないと言ってまた引き返して参りました。それから体調が悪いと言って一週間くらい寝込んでしまいました。それは、二次被爆と言って、やはり煙等で被爆を受けたいたのです。以後亡くなるまで、手足がしびれると言って苦しんでいました。原爆手帳も貰っていましたね。
後で聴いた話では、小学校のグランドに死体がいっぱい運びこまれて、中学生たちが薪を積んで焼いていたそうです。
       
それからは、戦後の新教育が始まるわけですが、これまでは教科書は古いお下がりでしたから、新しい教科書が無量で配布されて嬉しかったですね。
そして、学校給食というのも始まりました。パンと脱脂ミルクを給食係りがバケツで配るんですね。そこからパン食が始まるわけです。戦中戦後は、非常に貧しかったんですね。あなた方は分からないと思いますが、白米なんか食べられなくて、芋とか麦しか食べられない時代でした。学校給食が始まると昼食はパンとか白米を食べられるようになったのです。貧しいため、子供たちが栄養失調になったり、健康を害して成長が遅れることを危惧して始まったわけですね。
       
それから中学生に入るわけですが、よく東京に出かけていた叔父が、僕のために、油絵の具を買ってきてくれました。
この叔父は、石川啄木とも親交があった文化系の人でしたが、僕の絵画の芽を既に見つけていたのかと、今にして思います。それが油絵を描くきっかけになったわけです。
その当時、まだ僕の周りには油絵を描くような方は学校の絵画の先生しかいなかったですね。学校では水彩画を描いていましたから、僕は自己流で周りの風景を油絵を描き始めたわけです。ですから、油絵を描いているのは僕一人でした。
やっている内にこれが文化というもんだなんて思いましたね。というのは、その時代は文化に飢えていたようで、文化と言えばみんな飛びつく時代でした。文化鍋、文化包丁なんて名前をつけて文化一色になった時期でもございました。
我々としては田舎ですから、新しい文化に触れたくて広島市に出かけて行くわけです。岡本太郎等が、華々しく画壇にデビューしたり、パリーの画壇の話題、抽象画の話等、画壇にとってはとても盛んな、また刺激的な時代であったと思います。
高校生になり、益々美術の方向に目がゆき、図書館に行けば、美術全集に目を通すわけです。美術に関する友達も3人くらいいましたね。
岡山県の倉敷市にある大原美術館まで、フランスの印象派、後期印象派の原画が見に行きましたね。そういう勉強の仕方を高校時代はしていました。他の勉強はほとんどしなかったですね。絵のことばかり考えておりました。
美術を志向する道がだいたい、中学、高校時代を経て、出来たのではないかと思っております。
       
前に話を戻しますが。戦後になって、しばらくして、僕の町に進駐軍がきました。アメリカ兵、スコットランド兵たちが参りまして、我々少年少女たちはウエルカムで旗を振って出迎えたわけです。休日には、兵隊がそれまで見た事もなかったクリケットをやったりしていて、とてももの珍しくて新鮮でした。軍隊の行進には、バグパイクという楽器を演奏しながら、チエックのスカートに真っ赤な靴下をはいて行進していました。彼等にくっついていくと、チョレートやチューングをくれたりするわけです。また当時はやっていたジャズを教えてくれたりして、今でも覚えています。そういうことがございまして、外国人は日本人より新しいことをやっていて、進んでいるなと、子供心に痛感したわけです。日本が経済成長をする前で貧乏ですから、外国人は豊な生活をしているなと、目が外国の方にいきなり向いて行きましたね。
40歳を過ぎて外国に取材に行こうと言う気になったのも、子供のころ外国人に接していたことが、大きな原因ではないかと思っています。外国で、一人ぽつんと外国人の中に入っていても全然違和感を感じませんですからね。
       
高校時代まで広島の三次市で育ったわけでありますが、どうしても都会に行きたくて、最初、京都の親戚を頼って行き、京都で半年間、浪人生活を過ごしました。            
親戚の叔母が日本画は京都だけれど、洋画は東京に行った方がいいと言うので、急遽東京に出てきたわけです。
芸大の受験に失敗しましたこともあり、モダンアートのいい教授がおられるからと、ある先生に紹介していただき、文化学院に入りました。とても自由な雰囲気の学園でした。
卒業はしたけれど、モダンアートだけでは食べていけないということで、丁度そのころ黒人のモダンジャズが流行っていました。そのジャズの専門誌を発行しているスイングジャーナルという4〜5人の会社に入りまして、朝からジャズを聴きながら、雑誌のレイアウトをしたり、黒人のミュージシャンが日本に来た時は、カメラマンを連れて取材して本に載せたりする仕事をしていました。
エアメールで新しいレコードを取り寄せ、お客に聴かせるジャズ喫茶が新宿や渋谷に沢山できました。今では1〜2軒しかないと思いますが、10何軒も当時はできていたと思います。
月刊誌ができると、そういうジャズ喫茶や、広告を出してくれたところに持って行っていました。今でも小さい出版社はそういうことをしていると思いますが、そんな仕事を4年間近くやっていました。

ジャズというのは、戦後日本に入ってきたのですが、アフリカから奴隷としてアメリカに渡った人たちが、スタンダードな音楽を彼等なりにアレンジして作り出したものなんですね。ですから、ルーツはアフリカなんです。
以前「ルーツ」という小説が大ベストセラーになったことがありますが、アメリカの黒人の先祖はアフリカなんですね。農園とかで働きながら、悲しい歌のブルースとか、労働歌がジャズの根源にあると言われています。ロックや、ビートルズが出てくる前の音楽です。今も活躍されておられる渡辺貞男氏もその時代に出てきています。彼はその後アメリカに行きましたが彼の演奏にもよく取材に行きました。
そういう時代でありまして、それが月給を貰った4年間でありました。そこもいよいよ辞めまして、レコード会社のビクターやコロンビアがジャズのレコード出していましたので、そこのレコードジャケットのデザインを、フリーでしばらくやっていました。その内に仲間もふえて仲間たちとデザイン会社を起こしたわけです。昔の友人が電通に入っていましたので、アドバイスをいただいたりしておりました。
ところがあるとき、悪い事が重なりました。身内が次々と亡くなったのです。命あるものはみんな死んで行くんだということを目の前にしまして、人間は何かをして死んで行かなければならないのではないかと、はっとそこで我に返ったわけです。自分は故郷から何のために出てきたのか、絵を志して出てきたのではないか、今、何故やっていないのかという、原点に返ったわけです。
僕は何でも決めたらすぐやるタイプで、先日も陶芸家のガライヤ氏に「先生は何でもはっきりしすぎる」と言われてしまったほどなんですが、辞めると決めたら、すぐに社員も次の就職先も決めてやり、自分一人になりました。
会社もマンションを買ってオフィスにしていたのですが、それも売り払い借金も返しました。これで当初の原点に戻り、画家一本で生きて行こうと決めたわけです。
我家は子供もいなかったので、妻に「自分はこれから自由にやるぞ」と言ったら、「どうぞ自由にやってください」なんて言うものですから、その気になりまして、絵に専念し始めました。それが40歳のときでした。
        
でも絵を描くといっても難しかったですね。一端、離れてしまうと、以前の感覚を取り戻すには、何年もかかりましした。でも夢中で描きまして、個展を開けるまでになりました。でも開けると言ってもただ開けるだけで誰も欲しいという人はいないわけです。その内に銀座でやるようになったのですが、銀座の松坂屋デパートの美術画廊の部長が見にこられまして、「デパートの画廊でやりませんか」という誘いがありました。
そこで銀座のデパートでやるなら、自分は前々から中国に取材に行ってみたいと思っておりましたので、中国に取材に行ったわけであります。中国の桂林の水墨画の世界を油絵で描いてみたのでした。
翌年、中国を取材した作品を銀座松坂屋で開催し終わると、次はネパールに行きたい、チベットに行きたいという具合に、松坂屋の個展が終わると次から次へと毎年海外取材に出かけるようになりました。

ネパールのカトマンズに行くため、バンコクからロイヤルネパール機に搭乗したところ、機内で日本の青年に声をかけられました。話を聞くと、彼は仏教を勉強しに2年間留学をしに行くというのです。「何故ネパールか」と聞くと、インドにはもうほとんど仏典も残っていないが、ネパールにはまだ仏教の経典が沢山残っているので、そのために行くというのです。
カトマンズに着いて彼が「ホテルは?」訊くのでまだ決めていないと言うと、「それなら私の下宿している所に来ませんか」と誘われて、「それはいいね」と彼のアパートに連れて行かれたわけです。そのアパートは日本人が3人いました。3人もそれぞれ志を持って勉強をしに来ているのでした。
このアパートは名古屋のお坊さんが持っていて、日本人が勉強しに来てもお金がかからないように、許可さえ取って、自炊する食費だけあれば、何日いてもいいことになっていました。私もそういう所に入り込んだので、彼等とも交流することができましたが、仏教を通して言葉もサンスクリット語、ネパール語、ネワール語とか、いっぱいあるようでした。一緒に着いた彼は、言葉を覚えるには、3ヶ月が勝負だと言って、ネパール人の語学の教師を翌日から呼び、繰り返し繰り返し言葉を覚えていました。若い人は凄いなぁと感心しながら、1ヶ月間そこで過ごしました。
彼等からいろいろな話を聞いた関係で、私はどうしてもインドに行かざるを得ないとなるわけです。

次の年はインドを放浪するのですが、インドでのカルチャーショックは凄かったですね。
カルカッタの空港に降り立ったら若い日本人が3人いて、お互いに顔を見合わせて話をしたところ、誰もホテルがまだ、決まっていないと言うのです。そこで、一緒に探しに行き、カルカッタのWMCAに泊ることに決めました。ドミトリー風のベットに横たえるわけですが、インドの暑さといったら6月でしたが、寝ていても汗がたらたら流れてきてサウナ風呂に入ったようになり、脱水状態になりましたね。身体が環境に順応できないため、身体がだるくなり、4日くらい経ってから、ようやく外に出る気になりました。
若い人はその点順応が早かったですね。インドは水が汚いから飲むと肝炎になると言われていましたが、そんなことを言っていたら脱水状態になってしまうので、いい悪ではなく飲んでしまいましたが、別に下痢もしなかったです。
マザーテレサの病院へ働きにきている若い女性に会いまして、病院を見にこないかと誘われました。まだその当時、私はマザーテレサがどんな人か知りませんでしたが、バスに乗って3人くらいで見に行きました。
ところが凄いドヤ街で、スコールがきた後でしたので、泥だらけでの田んぼの中を歩いていうような所を歩いて行くわけですよ。周りは汚いほったて小屋のドヤ街で、その通りにはライ病の人が倒れていたりしていました。その先に真っ白い病院が建っているわけです。そのコントラストの凄さは、印象的で忘れられない光景でした。一歩病院の中に入ると真っ白いんですね。真っ白いシーツを敷いたベットがパァーと並んでいる。ドクターも純白の白衣を着て行き来している。まるで夢の世界に迷い込んだようでした。
貧富の差の激しさも凄かったです。インドのアハラジャが、大阪城を見て「我家の領地よりは狭いわね」という規模の違う大富豪たちがいたかと思えば、先ほどのドヤ街みたいな貧しい人たちもいるわけです。その差がとても激しい。
そんなインドを放浪して帰ってきたら、家内が開口一番、「あなたずいぶん歳を取って帰ってきましたね」と言うわけです。それほど身体の消耗が激しい厳しい旅でした。でも数々の想い出のあった旅でした。
あなた方も機会があったら、インドの旅をしたら、何か得るものがあると思います。同じアーリア系の人たちが異なった文明を持っているわけです。
インドの後、ギリシャ、トルコへと旅をしております。
ギリシャはヨーロッパの文明で、我々には通じないところも多々ありますね。両替店にいったとき、お金を投げて返すような生意気な女性がいましたよ。貨幣が床に散らばり、僕は頭にきたけれど、彼等はそれがあたり前なんですね。
ところが、トルコでは銀行に行っても、チャイ(お茶)が出てきて始まるわけです。とても親日的で、それからすっかりトルコ・フアンになり何回も訪れています。
トルコは今、EUに入りたいと騒いでおりますが、EUは全部キリスト教の国ですから、イスラム教のトルコが入るのは難しいようですね。トルコ政府は政教分離を唱えています。でも私のような人間には淋しいですね。街に流れるモスクの礼拝を呼びかけるサザーンは聴こえないし、スカーフを被った女性もいなくなるしで、淋しいですね。
       
旅を続けているうちに、文明の光景を求めて旅をするようになりました。
文明の発祥の地というのは、有る程度の豊かさの産物として出てくるんですね。狩猟民族が農耕民族になり、食べ物が確保されると、豊かさをもたらし、そういう所に文明というものが出てきています。それが解決されないと、歴史的にみても文明は出てきていないですね。
最初の文明を持ったシューメールまたエジプトなんかも、ナイルの洪水が来た後、土地が肥えて種を蒔いておけば自然に実がなり、食べ物にも恵まれる。そこから文明が栄えてくるんですね。そんな文明の光景を求めてエジプトのナイル河に行きました。
エジプト人は、ナイルの源流に対して敏感に反応していて、スーダンとの契約も何百年も先まで、水を堰き止めないという契約を交わしていますね。
僕がエジプトのカイロに行って、日本の商社マンのお宅に電話を入れたところ、「丁度今、日本からお客様が見えているから、いらっしゃいよ」と誘われ伺ったところ、アスワンダムの調査に日本の電源開発の方が見えられていました。土砂が溜まって調査して欲しい依頼を受けて来ていたのでした。その方々がおっしゃるには、土砂が溜まった原因は現地を見なくても分かるとおっしゃって、まさにプロなんですね。日本の技術も相当進んでいると感心しましたね。着いた翌日には現地に向われたのを見て、日本人は、勤勉だなぁと思いましたね。
僕は、その後、ナイル河の周辺のルクソール神殿等を取材して回ったわけです。
ナイルの流れを見つめながら、源流は、スーダン、エチオピアであるという想いが浮ぶわけです。いずれその内、源流へ足を踏みいれてみようと心に誓うのでした。
そんな折、エジプトの国営旅行会社に現地採用されたという日本人の若い3人の人達に出会いました。女性一人に男性2人でした。同じホテルに宿泊していたのでいろいろと話をしましたが、彼等はどうしてもご飯を食べたいと言って、部屋に電気釜を持ち込んで自炊をしていましたね。若い人はとても逞しいなぁと思いました。
僕はその後イスラエル、キプロスとまわってまた再会する約束で旅立ち、その帰りに彼等にまたお会いしたわけです。
僕が「明日、日本に帰る」と言うと、彼等が「エジプト料理をご馳走しますよ」と言ってくれましてね。下町の小さい店に連れて行ってくれましてご馳走していただいたのですが、話が弾みましてね「今度はどこに行かれますか」と訊かれて、意識したわけでもないけれど、「ナイルの源流に行きたいね」いう言葉が、無意識的に出てきていましたね。彼等は「それは凄いなぁ」と言っていました。
そして行くという決心をするのでした。
翌年スーダンに入ろうと思ったけれど入れない。それでいよいよエチオピアに行く決心をして行きました。1995年頃でしたかね。メインはあくまでナイルの源流に行ってみたいということでした。
僕がエチオピアに入った時期に人類学、これは松田先生もご存知だと思うのですが、エチオピアで人類最古の化石・ルーシーが発掘されたということは知っていたのですが、その後ラミダスというもっと古い時代の猿人が出てきたとうことが、イギリスのネーチャーという雑誌にも発表された年で、丁度私がアジェスアベバ市に入っていた時期に、イギリスのテレビ局の方や専門の学者が取材に随分来ていました。僕は30ドルくらいのホテルしか泊らないのですが、僕が行く先々で、そういう方々がデスカッションをやっているのに出会いました。
何を研究しているのだろうと思いながらみていましたが、猿人が発見されたということが、大きな課題になってエチオピに集っていたことが、後で分かりました。
そんなことがありましたが、僕はぼくでスケジュールを組んでいましたのでそのまま、廻ったわけです。
ナイルの源流にも入りました。
タナ湖という湖がありますが、そこが源流だと言われております。それにはいろんな支流があるらしいんですが、その辺を入ってみたいと思いまして、ガイドを連れて入ったのですが、まぁ来てよかったなぁという凄い迫力でした。
上流にテイッサットの滝がありまして、その滝の上流には幾つも支流があり、それが滝になだれこみます。その支流を横切るのですが、それにはパピルスという葦の葉に似た原料で作った舟が使われおります。
エジプトでパピルスは紙の原料として使われています。
そこを横切る方法として、舟を上流まで3人くらいで引っ張り上げ、それに僕と船頭が乗り込み、向こう側の下流の方に漕いで渡るわけです。
流れが急で、手に汗握るほどのスリル満点の川渡りでした。
その後僕は、中米のインカの遺蹟を見て廻ったのですが、インカ帝国のペルーに行ったとき、これは海抜3400メートルにあるのですが、そこにチチカカ湖とう湖があり、そこでも同じパピルスの種類の草で作った舟を使っていました。そこに、浮き島があるのですが、その島も同じパピルスの種類の草を刈って積んで出来た島なんです。だんだん沈むわけですから、それを積み上げ、積み上げて、そこで生活をしているわけです。
そういう人たちを、エチオピの人たちと比較してみたら面白いなぁと思いましたね。
ピラミットもそうですが、エジプトのピラミットと、メキシコのピラミット、マヤが作ったピラミットと、そういう階段式のエジプトのピラミットはこうだ、マヤのピラミットはこうだという文化比較論みたいなことをやってみたら面白いのではないかと思っています。いずれ僕もそれをまとめてみようと思っているんですが、そういう共通するものが地球上には沢山あるんですね。
ナイルの源流に入って、これがアフリカのエチオピアとの出会いでした。
        
人類が誕生した先祖は、どうもエチオピの高地で誕生したのではないかということが分かってきたわけです。
それ等の猿人は、アフリカから今度は、地下の大きな割れ目の谷間の溝を通って、どんどん進化しながら世界に拡散していくわけですね。アナトリアの方に行って白人類になったり、中国、モンゴルの方に行った方はモンゴロイドになるとか、どんどん拡散して進化して行くわけです。地質学の専門家が言うには、大きな地溝の谷間が、拡散して行く大きな役目を果たしていたのではないかというわけです。エチオピには、行って見ると分かりますが、大きな地溝が沢山ありますよ。

今度は、人類がそうやって地球上に拡散して行ったということにだんだん僕の関心が移って行きました。
モンゴロイドがベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に渡り、だんだん大南下して移動していますよね。
僕は行って驚いたのは、中南米の人達は日本人と同じ顔をしているんですね。マヤ族とか、インカの人たちは、日本人と非常によく似ています。同じモンゴロイド系なんですね。だから、確かにベーリング海峡を渡ったに違いないということを強く感じました。
そして、ペルーとか、マヤの人たちに会ってみると、非常に親近感を覚えるんですね。同じ顔をしながら、ご婦人が子供をおんぶしたりして歩いている光景を見ると、昔見た日本のおばちゃんの姿と全く同じ光景なんです。
それから専門的なことですが、DNAの血液を調べて見たら、だいたい同じような配列で似ているということを書いた書物を読みました。あ、やっぱりそうかという確証をそこで得ました。

アフリカで誕生した人類が世界の各地に拡散して行ったということを考えたとき、非常に夢が広がってきますね。そういう地球規模で考えた場合、世界が平和で戦争なんかしない方向性に行かざるを得ないのではないかと僕は思っているんですが、けれども、未だに戦争は絶えないし、民族の対立というのは、そんなには簡単に行かない。パレスチナとユダヤとの問題も旧約聖書の時代から続いている問題を未だに解決出来ないでいる。
果たして人間は進化しているのだろうか、我々の美術や、芸術も進化しているのだろうかなんて、感じながら絵を描いているわけです。

あまり長くなると退屈するでしょうから、別の話題に移りますが、絵画というのは誰でも描けるんですよね。また歌もそうですね。誰でも歌えますよね。簡単に入れる。ところが奥が深い。カラオケでうまく歌えるからプロになれるかというとそうは行かない。プロの世界はまた別の世界なんですね。何の世界でもそうだと思うのですが、美術の世界でもそうなんですが、誰でも絵は描ける。
だけどこういう職業を選んで、自分の人生を全うするんだという選択をしたところに、非常に大きな意味を持ってくるんですね。
 なんでもそうですが、上手な内はいいですが、必ず壁にぶつかりますからね。プロはその壁をぶち破って行かなければならない厳しい世界なわけです。
       絵の道も自分を発見することなんですね。自分を絶えず見つめて行かなければいけない。それにはどうすればいいのかということを何時も考えているわけです。
人と同じようなことをして、美術の上野の日展に出展して特選を取ればどうだというような生き方ではなかったですね。
絶えず自己発見を求めて、大きな世界にチャレンジしてみよう。広い世界を見てみようということが最課題でしたから、世界を廻った生き方になったのだと思います。
いろんな生き方がありますよね。だけど絵の道は非常に奥が深いので、なかなか片手間では出来ない。
僕も絵描きをやりながら非常に苦しいときもあるわけです。定期収入というものがない。絵の教室でも開いたらどうかとかというお誘いや、また弟子になりたいという方が何人もいるんですが、全部お断りしています。
僕一代限りということと、また、絵の道一筋とうことを貫き通すためです。
これが僕の生き方だと思っております。
油絵は変色しないので100年以上遺りますから絵が僕の生きた証しになってくれればと思っております。
僕は小さいときに、油絵との出会いがあり、そういう道が出来て歩んできたわけであります。

今は、新しいメデアのコンピューターグラフェックなど、いろいろなものが出てきておりすから、当然そういう出会いが若い方々にはあると思います。
若い皆さんは、今、いろんな道を摸索していると思いますが、どうか自分の道を発見して進んでいただきたい。

エチオピアにみなで学校を作ろうということは素晴らしいことで、松田先生の意見に僕も賛同したわけです。
若い人たちが参加して何かを作ろうということは、非常にいいことで、ただ政府関係の基金で作られた学校よりも、「我々学生が作ったんだ」ということのほうがもっと意義深いものがあると思いますね。
若いときというのはもう二度とこないんですよ。我々は、還暦が過ぎてから気がついて若さが欲しいと思っても、もう戻れないんですね。あなた方は今一番いい時期なんですよ。あっという間に30歳になり40歳になります。
今の20代はとても貴重な時間ですから、一生懸命勉強しながら、いい友人をつくったりしていただきたい。
二度と戻れない今の時期を、宝石のように大切にして、有意義に生きていただきたいと願って終わりといたします。
      
質疑応答に入ります。  
学生:
僕等が今やろうとしていることは、エチオピアに以前から大きなNPOや、NGOが入って沢山援助したけれど、あまり効果がなくて、援助なれしたとか、いろんな問題があって、個人でどういうことか出来るだろうかということを考えています。
それで、昔型の募金や、ボランテイァとかが、20世紀型というのであれば、21世紀型として、僕等若い人たちと松田先生とかで何か別の形でのボランテイアができないかという一つのきっかけとして、集団だけれど、国家に対しては個人だというものを、もう少し強く出来ないかといことを考えています。
そこで質問なんですが、集団に属さないで、先生はやられると思うのですが、そういうことの利点、また個人でやるということは、どういうことなのかなぁということを教えていただきたい。

伊藤ノリヒコ:: 
僕の人生の生き方の基本はアートなんですね。そこにいろんな人間としてのヒューマニズムとか、いろんな人道的なものがあって活動しています。
個人でやっているので、どこにも属してないので、そういう人たちの考え方というのは非常に分かりにくいのですね。
個人だけでやるということは、いろいろな問題が、すぐ出てきて大変ですよ。
出来るだけ若い皆さんが一つにまとまれば、僕は、出来ると思います。
やる気があるか、ないか、その気持ですよ。あなたたちは、今一番いい時期ですから燃焼すれば出来ますよ。
還暦を過ぎた僕だってまだ大きなイベントをやろうとしているのですから。
それは何年かかるかもしれませんよ。ガライヤさんだって、今度農業学校をエチオピアに作るのに、30年かかったと言っていますから。最初は誰も相手にしてくれなかったのだそうですが、毎年繰り返して言っているうちに輪が広がって皆協力してくれるようになったのです。僕もエチオピア大使館に行って土地をどうにか早く確保して下さいと、大使に迫ったことがありますが、それで土地も確保できて急に進んだんです。だから言い続けることも必要なんですよね。僕はそういうことしかサポートできないですけれど。
どういう学校ができるのかわりませんが、明日JICAにも皆さんをご紹介をして行かれるわけですが、JICAのどういう方向で作ろうとしているのか質問をしたほうがいいですね。自分たちとどういう違いが有るかと。個人で作るものは、こういう物が理想的だというものを作ればいいわけだからね。彼等に真似ることはないのだから。政治家がらみの方が学校を作る話もありますが、そういう方はまた別ですからね。
松田先生とご相談しながら、あなた達が理想とするものを作って行けばいいのではないでしょうか。そのためにはエチオピアに行ってみることも必要かもしれませんね。
若い時に経験するということはいいことなんですね。異文化に触れるということも必要です。ただ、今や異文化に触れるという感覚もだんだん薄れてきていますね。交通手段が発達してきていて、昔のように何日もかけてやっとたどり着くという外国だったわけですが、今は地球規模で飛行機で飛んで行けますからね。ただ、地球規模という感覚は大切ですね。
僕が驚いたのは、ペルーのマチュピチュに行ったとき、アグアスカリエントスという村から空中都市マチユピチュに登るのですが、そこには世界中の観光客が来ているわけです。
そこはとても奥地の村なんですが、だけど軽食店には、インターネットが備えてあるわけです。そこからメールで今、下山したよと、メールをしているわけです。僕なんかは未だにポストカードを書いているわけで、着くのに一週間かかるわけだから、それだけのスピードで動いているわけですね。それを痛感したわけです。
学校を作るやり方はいろいろあると思うのですね。
学校を作って中に設置する机とか椅子なんかは、現地で安く調達できるわけだからそういう物を活用するといいですね。立派なものを作っても中味がからっぽではこれも困りますね。絶えず教育する人がいるとか必要になってきますね。
僕はインドに行ったとき、チベットのラマ教のダライ・ラマにも会っているのね。ダライ・ラマがチベットを追われてインドに亡命していた時なんですね。100名くらいの信徒を連れてブッタガヤで出会ったのですが、すごいパワーで僕は驚きましたね。
インドでは2人の偉大な人物に会っているのですが、その時は気が付かなくても後で大きな意味が自分の中に湧いてくるんですね。ですから、いろいろな旅をしたりして経験を積まれるといいですね。
先ほどの個人でやる場合と、組織でやる場合の話ですが、画家の場合は、グループがあってその中での調和を取りながらの活動になるわけです。組織に属してその中で賞を取ったりして地位を確立して世の中に出るとういうのが一般的なパターンです。その中の規約や派閥や上下関係に縛られて自由に活動できないという側面がありますね。ただ、それの方が個人で一人でやるよりは安泰なわけです。
個人では自由ではあるけれど、すべての波風は自分が受けて立たなければならない。そういう厳しい面がありますね。でも芸術は独自のもですから、僕の場合は、それを追求するために個人でやっているわけです。
日本の場合は、個人の確立が遅れていますね。個性的な人がヨーッロッパやアメリカに比べると、弱いですね。農耕民族であるが故にという産物もあるのでしょう。
でも最近僕が感じるのは、だんだん狩猟時代に移りつつあるのではないかと思うわけです。
ビジネスの世界を見ていて感じるのですが、獲物が沢山いるところに狩猟民族は移動していたわけでしょう。
今や、地球規模になると、野球の松井秀喜が日本の巨人から今度は十倍以上ギャラを払うニューヨークのヤンキースに行けるわけですよ。サッカーの中田選手がヨーッロッパで活躍したいというと行けるわけです。
ヨーロッパでは南米の選手が獲物をめがけて移籍したりして、稼げるわけです。変わろうとして来ていますね。狩猟時代と言ってもいい競争社会になってきています。
世界に通用するものを自分が持っていれば、当然海外に出て行って高く評価してくれる所に移動できるわけですね。そういう時代がもう来ていますね。これからグローバルゼイションでどんどん進むと思います。
エチオピアに学校を作るということも、人と違ったあなたがた独自のものを創りだして頑張ってください!!


講演の後、庭でバーベキュー大会を開き、ママはおにぎり100個握って大奮闘!食べたり飲んだり夜の更けるのを忘れて語り合う。