"> フランス,ビルギー取材旅行日記
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 フランス、ベルギー取材旅行日記

 2001年11月8日〜16日まで取材旅行した日記を掲示板に掲載したもの
 まとめました。

 
                                
                                  
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 2002.1.27UP


フランスだより @
                2001年11月8日

成田から12時間飛行し、パリに到着。
久々のパリである。あれから何年たったのだろうか。
シャルルドゴール空港は雨である。
夕方のラッシュ時間と重なり、ホテルに着くまで時間がかかった。
メルキュールパリリヨンホテルである。
僕は以前このリヨン駅周辺のホテルに2回くらい宿泊したことがあり、多少地理にも詳しいということから、このホテルを選んだのであった。
11月のパリは寒くどんよりとし、霧雨のようなものが、時として降ってくる。激しいスコールではなく、霧のような感じで帽子を被っていれば、傘なしでも歩ける。
どんよりとした街並がネオンに浮かび、パリ特有の雰囲気をかもしだしていた。
絵になる風景である。きて良かったと思った。

セーヌ川よりエッフェル塔望む

 


フランスだより A   2001年11月9日 ノートルダム大聖堂行き 

                朝から霧雨のような雨である。
ぬれた落葉を踏みしめながら、さっそくセーヌ川沿いに歩いてみる。
セーヌ川沿いのシテイ島から、ノートルダム大聖堂へと向かった。
ノートルダム大聖堂はかって、百代の神々が祭ってあったという。
空中へそびえる塔をセーヌ川沿いからしばらく眺めながら、この大聖堂の受難な歴史を想いだしていた。
キリスト教に対する反抗を受け、波乱な歴史が刻みこまれている。
今は何も語らない大聖堂、僕は冷たい風が吹く川岸で、スッケッチするのであった。
そのあと、コンコルド広場を回ってぶらぶら街を散策する。
マチスの展覧会の看板が大きく出ていた。残念なことに12月である。惜しい!
初冬の舗道は一面の枯葉、、、「枯葉」のシャンソンの世界である。
あそこも、ここもと歩いては描き、くたくたになってホテルにたどりついた。


フランスだより B
2001年11月10日 モンサンミッシェル僧院行き


今日はパリでは珍しいといわれるほどの快晴に恵まれた。
街路樹の黄葉が陽の光に映えて美しい。
バスでノルマンディーのモンサンミッシエル僧院に向かう。
車窓から見える風景は、暖冬で麦が芽を出し、春の景色に近い緑の田園風景が広がっていた。
それは、空気も、風景もまさにモネの世界である。それとコローの世界でもあった。
モネもコローもこの地方に住み、ここの景色の絵を遺している。
モンサンミッシエル僧院は、8世紀頃、司教が夢の中で、”この地に修道院を建てよ”とのお告げがあり、建てられたと伝えられている。
砂と海に浮かぶモンサンミッシエルは大城壁の感があり、奇観とも言える景観である。
到着して、入口の門をくぐると、当時の大砲があり、僧院らしくない。
それは、宗教と政治がからみあって、生き長らえてきた僧院の遺物なのである。
陸地と堤防で結ばれているこの僧院の下から、上を仰ぎみたとき、恐ろしいほどの衝撃が走って立ち止まってしまった。
この衝撃は今回の旅のクライマックスかもしれない。
何かに衝き動かされる感じでスッケッチをしていた。
ここの景色はまたフランスらしくなく、イギリスの田舎の風景に似ている。またノルウィーの景色にも似ている。それは、ケルト人とノルマン人の移民の土地柄の故である。
帰りの景色は、やわらかい夕日のなかに浮かびあがり、また絵の題材になるのであった。
こんな風景の中で絵筆を握る生活をしてみたいと思いながら帰路に着いた。



ベルギーだより C    2001年11月11日 ベルギー・ブラージュ行き                                   
朝6時前に起床し、列車でベルギーに向かう。夕べ、ボージョレーヌヴォーを飲み過ぎ、2日酔いで頭が痛い。
日帰り旅行のため早朝出発である。パリは明るくなるのが、8時くらいであるため、まだ真っ暗である。
疲れをとるため、ポケットにバナナとリンゴをしのばせた。こちらのリンゴは、小さくて酸っぱい。土が石灰質のため、日本のような甘くて大きなリンゴが育たないのだという。その代わり、いいワインが採れる土地柄でもある。 バナナは疲れたとき、てきめんに効く即効性があり、今日から持ち歩くことにした。
列車はフランスの新幹線TGVである。
今回、最初から列車を予定していたので助かった。ベルギーの航空会社が、テロの余波を受け、僕の出発目前で倒産したのである。 列車は霧のもやの中を走って途中の景色はまったく姿を現してくれない。風景の見えないままブッルセルに到着する。 パリ6:55分発〜ブッルセル到着8:20分。1時間25分で着いた。
ブラージュ行きの列車に乗換える。待ち時間が少く、胃が痛むほどである。
ブッルセル発8:37発〜ブラージュ9時27分着。所要時間1時間である。
ローカル線でゆったりとした列車にゆられて、ブラージュに到着する。
ベルギーは、日本の九州よりやや小さい面積の小国である。
ブラージュは、運河に囲まれた街で、石畳がとても美しい。
トンガリ屋根の建物は、煉瓦色で中世の街並のようである。
いきなり、「おとぎの国」に訪れたような感じを受ける。
運河の水は脈々と流れ、岸辺の建物や木々の緑を映じ、ところどころにボートが浮かんでいる。街並みにとけ込み美しい景観である。
絵になる風景がいっぱいあり、夢中でスケッチをはじめる。
ここはビールの種類が豊富で400種類以上あると聞く。昼食に早速味わってみることにする。いろいろな種類を飲めないのが残念だったが、僕が飲んだビールの味は、日本のビールより、こくが深かった。料理はフランス料理をベースにしていて、美味しい。
くたくたになるまでここでもよく歩いた。歩くたびに発見があった。
お土産に特産のレースの小物を買う。
一日で帰るのが惜しいと思いながら、しぶしぶ列車に乗った。
帰りの車窓は、霧も晴れ、小説「フランダースの犬」の世界が広がっていた。



                                                                    


フランスだより D
11月12日  ベルサイユ宮殿行き

朝から快晴である。
メトロに乗って、オーストリッチ駅で降り、ヴエルサイユ宮殿に向う。
門から200mくらい歩いて宮殿に入った。
ヴエルサイユ宮殿は、ルイ14世の一声で20年間にわたり総力を結集して作った宮殿である。
ロマネスク最高傑作の建造物だといわれている。
見てまわりながら、変ななこを思いだしていた。
ここの宮殿にはトイレがないのである。マリー・アントワネットを初め、ドレスに身を包んだ貴婦人たちは、どうしたのあろうか、、、
トルコのトプカプ宮殿には、トイレがあったことを思い出したのである。
先進国のフランスより、排水設備はトルコの方が進んでいたのである。
そんなことを考えていたとき、突然、宮殿内部に不信物が置いてあるので、全員退避せよとのことで外に出されてしまった。
外は寒く、みな緊張した面持ちで突っ立ている。以前にも来て見ているので、そのままパリ市街に帰ることにした。
後でなんでもないことが分かったが、やはり緊張している世界情勢を肌で感じた事件であった。 何事もなくて本当によかった。


フランスだより E
11月13日 コンコルド広場行き

朝から薄曇りで冷え込む。
印象派のオルセー美術館に行くつもりだったが、あいにく従業員のストで封鎖されていた。
シャンゼリゼを歩き、コンコルド広場に行く。
エジプトから軍艦で運んできた、オベレスクがコンコルド広場で、さんさんと輝やき、その昔ここで多くの命を奪ったギロチン台があったなんて、信じられない明るい光景である。
オベレスクを仰ぎながら、エチオピアにもエジプトから運んできた一枚岩のオベレスクがあったことを思い出す。エチオピアは野原の中に建っていた。
そこから歩いてルーブル美術館に行く。庭にモダンアートのガラスのピラミットが建っているのが目に付く。美術館の中を見るには今回の旅では日数が足りない。以前見ているので中には入らないでスケッチをする。
舗道には積もるほどの枯葉が散っている。この季節ならわの味わい深さである。
それがまた絵になる光景なのである。
何気ない街角が絵になるのはやはりパリらしい。
僕はいつも取材はよく歩く事にしている。
歩くことにより、そこの土地柄が直に伝わってくる。

パリの香りをふんだんに吸い込み、又してもくたくたになって帰路に着いた。


フランスだより F
11月14日 モンマルト行き

朝方雨があがった。今日はモンマルトルに行く。
多くの画家たちが培って住み、アトリエを構えたところである。
古い灰色の壁や石畳がその昔がしのばせる丘の上に、白い白亜のビザンチン様式の3つのドームが陽に輝き、建っていた。それは、サクレ・クール聖堂であった。
その景は、モーリス・ユリトロの絵そのものであると思った。
この地域には、19世紀の初め頃までは風車の回る田舎であったという。
住居費や生活費が安いので、貧乏画家や詩人、異国人、職人たちのあまりお金に縁のない人たちが住むようになった。
このモンマルトルの丘に住みつきアトリエを持った画家たちは、ゴッホ、ロートレック、ルノアール、ユリトロ、ピカソ、ブラック、シャガール、ローランサン、アンリ・ルソー、ブラマンク、モジリアーニ、パスキンと数限りない。
詩人では、アポリネール、マックス・ジャコブと住んでいた。

サロンから抜け出て、新しい絵画、詩の創作等、若い芸術家たちの創作の原点がここで創り出されたのである。
昔は、大繁華街で、ミユジック・キール、劇場、映画館とネオンが輝き、娼婦たちがたむろしていた。
僕はこの丘に立ち、若い頃見た映画を思い出していた。
「赤い風車」ロートレックの自伝映画である。
子供頃、階段から転げ落ち、両脚を亡くし、小人のような姿であった。
素晴らしいデッサンを描き、赤い風車のナイトクラブで踊り子を描き続けるのである。
彼は死の床で、ルーブル美術館で絵を買い上げることを報され、息を引き取るのであった。


た映画”モンパルナスの灯”のモジリアーニの自伝も思い出すのであった。
若い移民の青年が、画家になるのに、街で似顔絵を描き、小銭を稼いでは、酒に浸り、若い女性と恋に陥るのである。最後のシーンが印象的であった。
モジリアーニが貧困に苦しみながら自らの命を捨てる。画商は、その死を確認してから、すべての絵を買い取ってしまうのであった。

また、ユリトロである。
母シュザンヌ・ヴアラドンは、画家たちのモデルをしていて、ロートレックや、ルノアールも描いている。彼女自身も画家になり、作品を遺しているが、なかなかのものである。
その子ユリトロは私生児であった。モンマルトルの風景、パリの風景を描き、安い値段で客に売り、それを酒代に費やし、ついに晩年はアルコール中毒にかかり、身体を壊してしまう。
彼は酒代だけ稼げればよく、絵画の理論などとは無縁であった。それ故に彼の画家としての評価は低いものであった。
だが、僕はこのモンマルとの丘に立ち、画家たちが愛したサン・クール聖堂の階段を降りながら、誰よりもユリトロの作品が鮮明に蘇ってくるのであった。


フランスだより G

「これまでのパリ行き」

僕のパリへの旅は1988年が最初であった。
ユーラシア大陸の東から西へと、文明の風景の探索の旅をしながら、パリからローマ・ミラノへと行き、そこから列車でバルカン半島を走りアテネに着いた。長い列車の旅であった。
アテネから飛行機でイスタンブールに飛び、再び飛行機でパリに戻ってきている。
89年には、パリのリヨン駅から、スペインのバロセロナに行き、そこからまたパリに戻ってきている。
90年にもパリからマルセイユに行き、地中海を船でチェニジァに渡っている。

「パリの思い出」

パリに深夜に着いたときのこと。
シャンゼリゼの裏通りの小さなホテルに入り、僕がしゃがんでリュックからパスポートを取り出し、顔をあげると、フロントにいた青年が両手をあげ、顔をひきつらせている!僕がピストルを出したと勘違いをしているのである。後で大笑いになったが、外国ならわでの思い出である。
その他、7月というのに、とても寒い夏に訪れたことがある。なにしろオーバを着込んだ老人もいたほど寒い夏だった。
7月14日の巴里祭は寒く、凱旋門からコンコルド広場までの軍事パレードの行進も寒くて長くは見ていられなかった。低空飛行の戦闘機がシャンゼリゼの大通りの上空を轟音と供に飛行していたが、僕はすぐホテルに引き上げた。
ホテルでワイン片手にフランスパンをかじり、ベットに横たえてた。
しばらくすると、ホテルのマダムが来て、貴方は画家と聞いたのでと、ホテルの最上階のガラスのロビーつきの部屋を与えてくれた。パレードが一望に見渡せる最高の部屋である。室内には、セザンヌの静物画の複製が飾ってあった。
文化を誇る国、さすがはパリだなァーと感激した。そんな思い出もある。
またいつだったか、シャルル・ドゴール空港がフランス国旗、三色の旗ですっぽり包装した光景に出くわしたこともある。
いつもゆっくりパリを見学しないで、ルーブル美術館、オルセー美術館ときまったコースで2,3日で移動してきている。
今回が一番長い滞在になった。


フランスだより H (上)
11月15日  
セーヌ川進行作品

今日はパリとも最後の日になる。
明日は日本に帰国するので、ゆくりパリの一日を楽しみたい気持ちである。
メトロはSTMICHEL駅で降り、カルチェ・ラタンとサン・ジャルマン・デ・プレ界隈をぶらぶらしてみようと出かける。メトロを降りると賑やかな大通りがセーヌ川と垂直に伸びている。これが、サン・ミッシル大通である。
サン・ミッシル大通りを歩いていたら、近くのソルボンヌ大学の学生らしい若者が、寒そうに足早に通り過ぎて行く。その先のブール・ミッシュまで歩いて行く。ここは学生や外国留学生が多いところでもある。
僕は自分の学生時代を思い出して重ねてみていた。


僕は東京の御茶ノ水にある文化学園で学生時代を過ごしている。
文化学院の近くに日仏会館があり、またアテネフランセがある。
学生の溜まり場としてシャンソン喫茶ジローがあり、身近にフランスの香りが一杯あった。
戦後、ヨーロッパの文化が、僕達若者には、魅力に満ちて映っていた。
フランスからシャンソン歌手、イベット・ジローが来日し、シャンソンが日本の庶民にも愛される風潮が出来つつあった時代である。銀座にも生で聴ける銀巴里喫茶が出来たのもこの頃である。
僕たちは、ブルータスや、アグッパの石膏デッサンの勉強と供にシャンソンを楽しんでいた。
パリは遥か遠い国でありながら身近に感じていたのである。また、映画もフランス映画が数多く上映され、アラン・ドロンやブリジット・バルドー、ジャンギヤバン、ジャンヌ・モローなどの名優が多く出現し、日本人を魅了した。

そんなことを思い出しながら、大通りに面した有名なカッフェで休むことにした。ここは、第二次大戦後、一時期サルトルなどがたむろしたカフェ・ド・フロールである。
パリはいたる所に歴史が残り、それを大切にする文化の国である。ダヴィットからアングル、ドラクロア、クルーベを経て印象派に移行する絵画の流れは、ヨーロッパ芸術の花道であった。
写実主義、印象主義は視覚の歓びというすぐれた感覚性を生みだした。
それは、今にいたるまで、大きな役目を果たしてきている。
パリには周辺の国々から芸術家が集まってきて、エコールド・パリの時代を築く。モディリアーニ(イタリア)、スーテイン(リトアニア)シャガール(ロシア)、ヴアン・ドンゲン(オランダ)、パスキン(ブルガリア)、キスリング(ポーランド)、藤田嗣治(日本)ピカソ、ミロ、ダリ(スペイン)と彼等は母国は離れてパリで制作した人たちである。

パリは世界の国々から芸術家を吸引するだけ魅力豊かな中心地であった。


フランスだより I (中)
11月15日

サン・ジェルマン大通りは、フアッションの流行の最先端を見ることが出来る通りという。だが、現在は、スピード時代で東京も、パリも、ニューヨークでもミラノでも流行は同じ速さではないかと思う。
ブランド商品は高価である。品質は良いのだが、着飾ってばかりでは、生活が楽ではない。パリジャンも最近は郊外に沢山出来た大型スーパー店に家族連れで買出しに行くという。高速道路もそんな買出し客で休日は混むと話していた。ルイ・ヴトンの店の前を通りかかると、日本人女性が列を組んで入って行った。横目でみながら、女性の物欲はすごいなァーと思った。
19世紀のフランス芸術の黄金時代には、パリ周辺の国々に大きな影響を与えている。ロシアのカタリーナ女王は、フランスの芸術家を招いているし、またピレーネ山脈を越えてスペインまでも浸透していっている。多くの宮廷の貴婦人たちが、競ってパリの流行に浮き身を費やしたのであった。


フランスだより J (下)
11月15日 


僕たちの世代は戦後の貧しい時代から全く異なった西欧の文化を受け入れた時代であった。
西欧は遥か遠い国であり、特にパリは、文化の香りが漂う憧れの的であった。
時代と供に、誰でもが行けるグローバル化が進み、気軽にショッピングに行ける時代になった。
だが、便利な時代になって、改めて歴史、文明を問いただし、21世紀への新しいエネルギーに引き継ぐことを考えなくてはならない。
20世紀の大遺産は、パリであったのではなかろうか・・・

そんな想いを抱きながらパリ最後の一日を過ごした。
枯れ葉が散り、やがて新芽が芽吹くのもそう遠くはない。


フランスだより K
11月16日

僕はシャルル・ドゴール空港を飛びたち、機上から遠ざかるパリの灯を見つめながら、”あれがパリの灯だ”というリンドバークの言葉を想い浮かべていた。

パリだより 完