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フランス、ベルギー取材旅行日記
2001年11月8日〜16日まで取材旅行した日記を掲示板に掲載したもの
まとめました。
問い合わせ先
〒297-0002千葉県茂原市千町3819-13
伊藤ノリヒコ
TEL&FAX 0475-25-2810
Eメールi-tomoe@beige.plala.or.jp
2002.1.27UP
セーヌ川よりエッフェル塔望む
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■ フランスだより A 2001年11月9日 ノートルダム大聖堂行き ![]() ぬれた落葉を踏みしめながら、さっそくセーヌ川沿いに歩いてみる。 セーヌ川沿いのシテイ島から、ノートルダム大聖堂へと向かった。 ノートルダム大聖堂はかって、百代の神々が祭ってあったという。 空中へそびえる塔をセーヌ川沿いからしばらく眺めながら、この大聖堂の受難な歴史を想いだしていた。 キリスト教に対する反抗を受け、波乱な歴史が刻みこまれている。 今は何も語らない大聖堂、僕は冷たい風が吹く川岸で、スッケッチするのであった。 そのあと、コンコルド広場を回ってぶらぶら街を散策する。 マチスの展覧会の看板が大きく出ていた。残念なことに12月である。惜しい! 初冬の舗道は一面の枯葉、、、「枯葉」のシャンソンの世界である。 あそこも、ここもと歩いては描き、くたくたになってホテルにたどりついた。 |
■フランスだより B 2001年11月10日 モンサンミッシェル僧院行き ![]() ![]() 今日はパリでは珍しいといわれるほどの快晴に恵まれた。 街路樹の黄葉が陽の光に映えて美しい。 バスでノルマンディーのモンサンミッシエル僧院に向かう。 車窓から見える風景は、暖冬で麦が芽を出し、春の景色に近い緑の田園風景が広がっていた。 それは、空気も、風景もまさにモネの世界である。それとコローの世界でもあった。 モネもコローもこの地方に住み、ここの景色の絵を遺している。 モンサンミッシエル僧院は、8世紀頃、司教が夢の中で、”この地に修道院を建てよ”とのお告げがあり、建てられたと伝えられている。 砂と海に浮かぶモンサンミッシエルは大城壁の感があり、奇観とも言える景観である。 到着して、入口の門をくぐると、当時の大砲があり、僧院らしくない。 それは、宗教と政治がからみあって、生き長らえてきた僧院の遺物なのである。 陸地と堤防で結ばれているこの僧院の下から、上を仰ぎみたとき、恐ろしいほどの衝撃が走って立ち止まってしまった。 この衝撃は今回の旅のクライマックスかもしれない。 何かに衝き動かされる感じでスッケッチをしていた。 ここの景色はまたフランスらしくなく、イギリスの田舎の風景に似ている。またノルウィーの景色にも似ている。それは、ケルト人とノルマン人の移民の土地柄の故である。 帰りの景色は、やわらかい夕日のなかに浮かびあがり、また絵の題材になるのであった。 こんな風景の中で絵筆を握る生活をしてみたいと思いながら帰路に着いた。 |
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■フランスだより D 11月12日 ベルサイユ宮殿行き 朝から快晴である。 メトロに乗って、オーストリッチ駅で降り、ヴエルサイユ宮殿に向う。 門から200mくらい歩いて宮殿に入った。 ヴエルサイユ宮殿は、ルイ14世の一声で20年間にわたり総力を結集して作った宮殿である。 ロマネスク最高傑作の建造物だといわれている。 見てまわりながら、変ななこを思いだしていた。 ここの宮殿にはトイレがないのである。マリー・アントワネットを初め、ドレスに身を包んだ貴婦人たちは、どうしたのあろうか、、、 トルコのトプカプ宮殿には、トイレがあったことを思い出したのである。 先進国のフランスより、排水設備はトルコの方が進んでいたのである。 そんなことを考えていたとき、突然、宮殿内部に不信物が置いてあるので、全員退避せよとのことで外に出されてしまった。 外は寒く、みな緊張した面持ちで突っ立ている。以前にも来て見ているので、そのままパリ市街に帰ることにした。 後でなんでもないことが分かったが、やはり緊張している世界情勢を肌で感じた事件であった。 何事もなくて本当によかった。 |
■フランスだより E 11月13日 コンコルド広場行き 朝から薄曇りで冷え込む。 印象派のオルセー美術館に行くつもりだったが、あいにく従業員のストで封鎖されていた。 シャンゼリゼを歩き、コンコルド広場に行く。 エジプトから軍艦で運んできた、オベレスクがコンコルド広場で、さんさんと輝やき、その昔ここで多くの命を奪ったギロチン台があったなんて、信じられない明るい光景である。 オベレスクを仰ぎながら、エチオピアにもエジプトから運んできた一枚岩のオベレスクがあったことを思い出す。エチオピアは野原の中に建っていた。 そこから歩いてルーブル美術館に行く。庭にモダンアートのガラスのピラミットが建っているのが目に付く。美術館の中を見るには今回の旅では日数が足りない。以前見ているので中には入らないでスケッチをする。 舗道には積もるほどの枯葉が散っている。この季節ならわの味わい深さである。 それがまた絵になる光景なのである。 何気ない街角が絵になるのはやはりパリらしい。 僕はいつも取材はよく歩く事にしている。 歩くことにより、そこの土地柄が直に伝わってくる。 パリの香りをふんだんに吸い込み、又してもくたくたになって帰路に着いた。 |
■フランスだより F 11月14日 モンマルト行き ![]() 多くの画家たちが培って住み、アトリエを構えたところである。 古い灰色の壁や石畳がその昔がしのばせる丘の上に、白い白亜のビザンチン様式の3つのドームが陽に輝き、建っていた。それは、サクレ・クール聖堂であった。 その景は、モーリス・ユリトロの絵そのものであると思った。 この地域には、19世紀の初め頃までは風車の回る田舎であったという。 住居費や生活費が安いので、貧乏画家や詩人、異国人、職人たちのあまりお金に縁のない人たちが住むようになった。 このモンマルトルの丘に住みつきアトリエを持った画家たちは、ゴッホ、ロートレック、ルノアール、ユリトロ、ピカソ、ブラック、シャガール、ローランサン、アンリ・ルソー、ブラマンク、モジリアーニ、パスキンと数限りない。 詩人では、アポリネール、マックス・ジャコブと住んでいた。 サロンから抜け出て、新しい絵画、詩の創作等、若い芸術家たちの創作の原点がここで創り出されたのである。 |
「これまでのパリ行き」
僕のパリへの旅は1988年が最初であった。 ユーラシア大陸の東から西へと、文明の風景の探索の旅をしながら、パリからローマ・ミラノへと行き、そこから列車でバルカン半島を走りアテネに着いた。長い列車の旅であった。 アテネから飛行機でイスタンブールに飛び、再び飛行機でパリに戻ってきている。 89年には、パリのリヨン駅から、スペインのバロセロナに行き、そこからまたパリに戻ってきている。 90年にもパリからマルセイユに行き、地中海を船でチェニジァに渡っている。 「パリの思い出」 |
■フランスだより H (上) 11月15日 セーヌ川進行作品 今日はパリとも最後の日になる。 明日は日本に帰国するので、ゆくりパリの一日を楽しみたい気持ちである。 メトロはSTMICHEL駅で降り、カルチェ・ラタンとサン・ジャルマン・デ・プレ界隈をぶらぶらしてみようと出かける。メトロを降りると賑やかな大通りがセーヌ川と垂直に伸びている。これが、サン・ミッシル大通である。 サン・ミッシル大通りを歩いていたら、近くのソルボンヌ大学の学生らしい若者が、寒そうに足早に通り過ぎて行く。その先のブール・ミッシュまで歩いて行く。ここは学生や外国留学生が多いところでもある。 僕は自分の学生時代を思い出して重ねてみていた。 僕は東京の御茶ノ水にある文化学園で学生時代を過ごしている。 文化学院の近くに日仏会館があり、またアテネフランセがある。 学生の溜まり場としてシャンソン喫茶ジローがあり、身近にフランスの香りが一杯あった。 戦後、ヨーロッパの文化が、僕達若者には、魅力に満ちて映っていた。 フランスからシャンソン歌手、イベット・ジローが来日し、シャンソンが日本の庶民にも愛される風潮が出来つつあった時代である。銀座にも生で聴ける銀巴里喫茶が出来たのもこの頃である。 僕たちは、ブルータスや、アグッパの石膏デッサンの勉強と供にシャンソンを楽しんでいた。 パリは遥か遠い国でありながら身近に感じていたのである。また、映画もフランス映画が数多く上映され、アラン・ドロンやブリジット・バルドー、ジャンギヤバン、ジャンヌ・モローなどの名優が多く出現し、日本人を魅了した。 そんなことを思い出しながら、大通りに面した有名なカッフェで休むことにした。ここは、第二次大戦後、一時期サルトルなどがたむろしたカフェ・ド・フロールである。 |
サン・ジェルマン大通りは、フアッションの流行の最先端を見ることが出来る通りという。だが、現在は、スピード時代で東京も、パリも、ニューヨークでもミラノでも流行は同じ速さではないかと思う。 |
そんな想いを抱きながらパリ最後の一日を過ごした。 |
パリだより 完
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